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お知らせ2024.03.08

アメリカのろう女性史

「アメリカにおけるろう女性史」について公開しました。


  


アメリカにおける「ろう女性史(デフハーストーリー、Deaf herstory)」※1 について、ギャローデット大学※2 ろう者学部(Deaf Studies Department)教授のジーニー・ガーツ(Genie Gertz)氏と、ナショナルデフライフミュージアム(National Deaf Life Museum)ディレクターのメレディス・ペルツィ(Meredith Peruzzi)氏にお話いただきました。


※1 ろう女性を取り巻く歴史についてまとめたもの。「歴史」を「History(ヒストリー)=男性の物語、男性史」などと表すのに対して、 女性の視点から「Herstory(ハーストーリー)=女性の物語、女性史」などと言い換えた「女性史」と「ろう(Deaf、デフ)」を組み合わせた名称。


※2 米国ワシントンD.C.にあるろう難聴(聴覚障害)学生のための総合大学。筑波技術大学と同じく、ろう難聴(聴覚障害)者が集うコミュニティとしても知られ、今までに受けてきた教育や家庭環境、コミュニケーション手段など多様なバックグラウンドを持つろう難聴(聴覚障害)学生がキャンパスを拠点として、大学生活を共にしている。当事者主体の大学を目指して「デフ・プレジデント・ナウ(Deaf President Now、今こそろう学長を)」運動を起こしたことは世界的に知られており、大学設立から124年後の1988年にようやくろう者の学長が誕生している。


(以下、動画の内容になります。)


みなさまこんにちは。私はジーニー・ガーツです。こんにちは。私はメレディス・ペルツィです。アメリカにおけるろう女性の歴史についてお話ししたいと思います。歴史を流れに沿ってお話ししていきます。まずはアメリカのろう教育の歴史について、文化研究、ろう女性学それぞれの歴史、そして代表的なろう女性の生い立ちから功績までを辿ります。最後にろう女性の活動団体についても紹介します。



まず、アメリカにおけるろう教育の歴史のお話しです。ろう教育の歴史は1814年まで遡ります。写真にも写っている男性、トーマス・ホプキンズ・ギャローデット(サインネーム)がアリス・コグスウェルという名の少女に出会うところから始まりました。彼女はろう者でした。父の名前はメーソン・コグスウェルでした。医者であった父は娘がろう者であることで十分な教育が受けられるのか不安を抱いていました。コネチカット州での話です。関係者が集まって話し合い、ろうの子どもたちの教育の場が必要であるという結論に至りました。その後、ヨーロッパでろう教育がなされていることを聞きつけたギャローデットは、ヨーロッパへ視察に行くことを決めました。まず向かったイギリスでろう学校を設立していたブレアウッド一家に出会いました。教育方法は門外不出で、それらを学ぶためには契約を交わしたとしても、習得までに数年の時間を要するため断念しました。そんな中、パリのろう学校関係者が来ているという記事をたまたま見つけました。パリろう学校設立者のド・レペから引き継いだシカール、クレークとマシューが講演をする様子を見に行きました。その話に感銘を受けいくつもの質問をしたギャローデットは、パリ行きを決め、最終的にはクレークを伴いアメリカ行きの船に乗り込みました。それがアメリカでのろう教育の始まりとなりました。


1817年に二人の乗った船がアメリカへ到着し、コネチカット聾唖教育指導施設が設立されました。当時「啞」という言葉は喋れない人のことを意味して使われていました。今日ではアメリカろう学校という名で知られています。卒業生がアメリカ各地でろう学校を設立し、それぞれの地でのろうコミュニティーの形成につながりました。そのように全国各地にろう学校が設立されていきました。



1857年ワシントンDCでは、エイモス・ケンダールが数人のろうの子どもたちに出会い、ろう学校の必要性を確信しました。その後、コロンビア聾唖教育施設を設立しました。同年にギャローデットの息子のエドワード・マイナー・ギャロデット(サインネーム)が母ソフィア・ファウラーと共に学校の運営を開始しました。1864年、リンカーン大統領は国立聾唖大学設立議案に署名をし、数々のろう者が高等教育を受けられるようになりました。1894年にギャローデット単科大学に改称され、1986年には今のギャローデット総合大学になりました。


続いて文化研究が始まった経緯についてお話をしたいと思います。アメリカでは60年代に市民権獲得運動が広まり、自己の目覚めにつながり、女性学も含めそれらの活動が活発になりました。より多くの女性が自身の持つ権利とは何かなどを知るきっかけになりました。1970年にサンディエゴ州立単科大学(現:サンディエゴ州立大学)の文化研究の一環として女性学という分野が加わりました。続いてコーネル大学でも同じように女性学が学べるようになりました。その後、女性学という学問がアメリカ全土に広まりました。その流れにそって、1981年にボストン大学でデフスタディーズ(ろう者学)が学問として学べるようになりました。1983年にカリフォルニア州立大学ノースリッジ校、1998年にはラマー大学、1994年にはギャローデット大学で同じようにデフスタディーズ(ろう者学)が学べるようになりました。他の大学でもデフスタディーズ(ろう者学)が学べるようになりましたが、この4つのの大学が先駆者となりました。


デフスタディーズ(ろう者学)に引き続き、3つの大学でろう女性学がスタートしました。まず、1993年にビッキー・ハーウィッツが国立聾工科大学で初めてのろう女性学の教鞭を取りました。1996年には私ジーニー・ガーツがカリフォルニア州立大学ノースリッジ校で、続いて1997年にはアーリーン・ケリーがギャローデット大学にて同じくろう女性学を教え始めました。



これからろう女性学が始まった経緯について詳しく説明していきたいと思います。ビッキーが教職に就いたと同時期に大学院生だったことで、課題の中で取り組んでいた模擬クラスの作成を進めていく上でろう女性についての資料などがあまりに少ないこと、そしてろう女性の物語とも言える、ろう女性史が作られていくこと女性のロールモデルの存在は不可欠であることに気が付きました。そこで、ろう女性史プログラムの試行を開始しました。例えば、国立聾工科大学の近隣にあるアメリカ女性殿堂などへ学生を連れて行ったりしました。殿堂があるセネカフォールズは、女性の権利運動の流れで所管の宣言とされるものが提出された場所でもあります。そういうようなところに学生たちを連れて行くことで、学生たちにはろう女性史について学んでもらうようにしました。また、ロチェスターにあるロチェスターろう女性団体や 全米ろう女性団体とも積極的に関わりを持たせようにしてきました。これらが主に国立聾工科大学で取り組まれてきたろう女性学です。


カリフォルニア州立大学ノースリッジ校で、私はデフスタディーズ学科で教えていましたが、カリキュラム自体がまだまだろう女性を含め、多様性を反映できていないことを痛感していました。私の母、祖母、祖父母の存在のおかげで、フェミニズムの考え方を幼い頃から身近に感じて育ちました。それらのルーツのおかげで、文化の違いを尊重し、インクルーシブに努めることを常に大切にしてきました。当時のカリキュラムに多様性をきちんと反映させることを念頭にろう女性学のクラスの提供を開始しました。クラスの概要としては、多様なアクティビティーの中にも、反転学習の機会を設け、授業外学習を直接の学びに結びつけるような形態にしました。その他にもワークショップやミニ会議と題し、実在したろう女性について知る機会を増やし理論を実践につなげる教育を提供してきました。クラスの延長線上で、DWU(ろう女性団体)ロサンゼルス支部も設立しました。これらのことをカリフォルニア州立大学ノースリッジ校のろう女性学で取り組んできました。


続いて、ギャローデット大学でのアーリーンの活動内容についてお話をさせていだきます。1995年から2000年にかけて、アメリカ文化研究の博士課程に在籍していました。当時受講していたものの多くは女性学で、ろう女性学に関しての文献などは特に数少なく、それがきっかけになり、ろう女性学のクラスの開設に至りました。クラスの課題の中に、卒業生パネルディスカッションといったものがありました。毎年ギャローデット大学のホームカミングの時期に合わせて、その年に開催される同窓会のメンバーを募って2009年から2015年までギャローデット大学の卒業生を通して見るろう女性を語る会が開かれました。これらが主にギャローデット大学で取り組まれていたろう女性学の歴史です。


このようにさまざまな出来事があり、その中で消滅したものもありますが今日まで活動を継続している団体がいくつかあります。元々はろう者が保険に加入する機会がないことから設立された米国ろう者友愛組合という団体がありました。当時は、米国ろう者友愛組合は男性中心に運営されることが多く、女性には活動への参加や選挙など権限を持たせてもらえない状態でした。そのため女性は補助的な役割を担いながら、徐々に活動に参加する機会をもらいながらようやく、女性、そして黒人の加入も認められるようになっていきました。全米ろう連盟も元々は男性中心に運営がなされていた時代があり、女性には同じ権限を与えられていませんでした。その後、女性部が設立されました。女性部の会員が増え続け、全米ろう連盟とは独立した全米ろう女性団体という組織へと派生していきました。また、人種によるろう女性で成り立っている団体も設立され、今でも幅広く活動しています。その間もまた別の形で、キルティング、カードゲーム、読書クラブ、スポーツなど、共通の趣味を通じて女性同士が集まることも多くありました。今現在の活動の中心は、社会的・政治的な地位の向上などに繋がっています。


ここで私の解説を締めくくらせていただき、続いてメレディスさんにろう女性のコミュニティへの貢献の歴史と未来についてご紹介いただきます。


ここで代表的なアメリカ人ろう女性について少しお話しをさせていただきます。まず一人目はアガサ・ティーゲル・ハンセンです。彼女は1873年に生まれ、国立聾唖大学を卒業しました。4年間の学生生活を経て、学位を取得した初めての女性です。学生時代に、女学生有志が集うPhi Kappa Zetaの原型と呼ばれる読み書きを中心としたクラブOWLSを設立しました。ギャローデット大学の学生誌「バフアンドブルー」の制作にも携わっていました。卒業生総代にも選出され、「女性の知性」という題目のスピーチをしました。1959年に亡くなるまで、詩を書き続け、コミュニティー活動家であり続けました。


ペトラ・ファンドレム・ハワードは1891年に生まれました。高校を卒業後に、ギャローデット大学へ入学しました。1912年に学位を取得しました。女性の参政権獲得のために、力を尽くし活動を続けました。参政権獲得のための運動にも積極的に参加し、ミネソタ州の労働省の初めてのろう者職員としてろう者の雇用推進に尽力しました。1960年にはギャローデット大学からその功績を讃え、名誉学位が受け渡されました。1971年に生まれ故郷のミネソタ州で亡くなりました。


1930年アメリカは世界恐慌へ陥りました。その同じ年にガーツュルード・スコット・ギャロウェイ (通称ガーティー)は生まれました。1951年にギャローデット大学を卒業しました。彼女のキャリアは初めて尽くしでした。1980年に全米ろう連盟初の女性会長になりました。1991年にはろう学校初の女性として教育長に、1995年には全米ろう高齢者団体初の女性会長に就きました。輝かしいキャリアをお持ちでした。2014年にお亡くなりになりました。


1928年にドロレス・ラミレス・バーネットは生まれました。1954年にラテン系アメリカ人の女学生として初めてギャローデット大学を卒業しました。長年アメリカ南西部に位置するアリゾナ州でろう高齢者が手話で会話のできる施設建設のための活動をされました。2012年にアリゾナ州でお亡くなりになりました。




アメリカがまだ世界恐慌の真っ最中の1935年にアイダ・グレイ・ハンプトン は生まれました。その時代には人種差別が根強くありました。アイダはギャローデット大学初の黒人ろう女性卒業生となりました。ギャローデット大学在学中は、黒人白人と人種の違いなどに関係なく教室を共にすることができましたが、卒業後は、フロリダ州立ろう・盲学校で白人とは別の黒人学生のための クラスで教えることになりました。1983年には教鞭を取りながら、職場のあるセントオーグスティンにあるノースフロリダ大学の修士号も取得しました。長年の教員生活の後、1989年に定年退職をしました。2018年には黒人ろう者コミュニティーへの貢献をはじめ、黒人ろう女性初の卒業生として讃えられ、ギャローデット大学から名誉学位が授与されました。 今なお、教会活動を盛んに行っておられます。


アジア系ろう女性のドロシー・チヨコ・スエオカ・キャスターラインは1927年ハワイ州で生まれました。ギャローデット大学を1958年に卒業しました。卒業後すぐにウィリアム・ストーキーとアメリカ手話言語学の研究を始めました。言語分析に長け、特別なタイプライターを使い、ストーキー表記を書き写す仕事をしていました。1965年に刊行された初のアメリカ手話辞書をストーキーと共同執筆しました。2022年にようやく彼女の功績が讃えられ、ギャローデット大学から名誉学位が授与されました。現在はサウスカロライナ州でご子息と一緒に住んでおられます。


1941年にシャーリー・アレンは生まれました。聴力を失うと同時にギャローデット大学へ編入し、1966年に卒業しました。1992年には、黒人ろう女性として初の博士号を取得されました。彼女を筆頭に、以後次々と博士号を取得されるろう女性の存在が増えました。28年間ロチェスター工科大学で教鞭をとられ、今もご健在です。




バーバラ・シェル・バスはギャローデット大学において、功績を残されています。彼女は、1938年に生まれました。ギャローデット大学の学生で構成される生徒会では、初のろう女性として会長になりました。1800年代から1959年まで生徒会は男性主導で運営されてきました。卒業後は、ユタ州立ろう学校で長年教員を勤められました。その後、管理職に就きました。



メラニー・マッケイ・コーディーは1962年に生まれました。アメリカ先住民族のチェロキー族出身でした。1988年にギャローデット大学を卒業し、2019年には博士号を取得しました。彼女の研究分野は先住民族の手話言語研究でした。現在はアリゾナ州立大学で教鞭をとられ、アメリカ先住民族ろうコミュニティを中心に活動されています。



ここでは数々のアメリカ人ろう女性についてお話しさせていただきました。まだここでは語りきれなかった女性たちの物語もたくさんあります。そのような方々の物語や人生を見つけ、今後も語り続けていきたいです。ありがとうございます。



プレゼンター:ジーニー・ガーツ(Genie Gertz)、Ph.D.

       メレディス・ペルツィ(Meredith Peruzzi)、M.A.


編集:小林 洋子


2021年度竹村和子フェミニズム基金

「ろう女性史(デフハーストーリー、Deaf herstory)に関する調査研究

 〜 手話言語による自分史語り・ダイアログを通して 〜」(代表 小林洋子)に基づく成果の一部です。


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