お知らせ
はるの空 〜聞こえない私が見た世界〜 春日晴樹さん
プロフィール
Q.ろう学校時代の春日さんはどんな生徒でしたか?
毎日遅刻ばっかりしている生徒でしたね。1年の半分ぐらいは遅刻してたんじゃないかな(笑)。「自由と自立」という方針を掲げている学校で「自由に考え、これでよいか自ら判断すべし」という考え方を基本としていたので、遅刻してもなにか言われることはありませんでした。制服も自由だし、海外に近い形の学校だと言われていましたね。日本の常識にとらわれない学校だったのが合ってたんだと思います。とても楽しい学校でした。
- 学校ではどうでしたか?-
常に周りに人がいました。授業中にも学生や先生までが私のところに来るくらいでした。先生とも喋ってばかりで、資格取得以外で勉強した記憶はほとんどないですね(笑)。それでも国語と社会は好きでした。漫画や本を読むときに意味がよくわかるようになるのが楽しくて、たとえば遠回しな言い方を学んだときに、その真意や「そういう言い方があるんだ」と知った瞬間は印象深かったものです。社会は地理で世界の広さを知ったこと、これがのちに日本放浪の原動力になりました。歴史のほうは、学校によく海外のろう者が来てたんですが、ほとんどが自分の国の歴史についてよく説明されるんです。それで「自分の国の歴史について知らないの?」と驚かれることがあって、それで関心を持つうちに好きになっていました。
Q.学生時代にバイクで日本を放浪されたとのことですが、どのようなきっかけがあったのですか?
地理を楽しみながらどんどん教科書の内容を進めていく私を見た先生が「このまま勉強しているのはもったいない。学校休んでいいから、旅にでも行ってきな。」と言ってくれて、そのまますぐ旅に出かけました。1か月ほど休みましたね。
- ということは夏休みですか?-
いやいや学校のあるときですよ(笑)。学校で勉強するのも大事だけど、自分の目で見た方がはるかに学びがあるいうことで。先生曰く「旅をするのも『勉強』」なんです。だから単位も認められました。本当に自由な学校ですね(笑)。私の他にも旅に出てる生徒が数人いました。
- どんな旅でしたか?-
高3のときに現金3万を持ってスタートしました。これでは1、2か月なんて到底もちませんから、うまい棒3本30円を1食分としたり......1日の食費が100円以下におさまるんですね、水は公園の水でしのいだりしました。野宿上等で寝袋を持参して、夜は公園のベンチとかに寝るんですが、心配して声をかけてくれる方が来て、その方の家に泊めてもらったりしていました。お寺に泊まったこともあります。雨や台風の夜は野宿するには最悪なので、そのときはホテルに泊まりました。流れに身を任せた旅でした(笑)。
- その1回だけですか?周囲は心配したのではないですか?-
それから専攻科2年まで、年に1回、計3回同じような旅をしました。親には置き手紙だけ残して旅に出ましたね。携帯電話やスマホのなかった時代ですから、全く情報はなく、連絡もしませんでした。親にも最初は心配されたけど、あっという間に慣れたのか2回目からは「また行くのかー」程度の反応になりました。帰ってきて先生に「外の世界は楽しかったです」と報告したら、「そうだろう、でも世界はまだまだ広いぞ」と言われて、海外も知りたくなり、これがのちの世界一周の旅に繋がります。
Q.なぜ介護とプロダイバーの仕事を始めようと思ったのですか?2つの仕事を同時にされていたのには理由がありますか?
将来、親が老いて衰えたときのことを考えて、母は完全な手話話者・ろう者ですから、もし介護士が非手話話者だと対応に限界があると思いまして。私が介護士になることで母を安心させられると思って介護福祉士の資格を取ることを決めました。
簡単ではなかったです。北海道から九州までの介護学校に、ろう者の入学を打診してもどこも一律「無理です」という回答ばかりでもう諦めかけたそのとき、最後に残った沖縄の1校から話を聞きたい旨の返事が返ってきました。面接や試験の末に入学することができました。ろう者であることに対して「前例はあなたが作ればいい」と言ってくれたのが印象に残っています。
きこえない人は私だけで、講師は必要な情報を板書で伝えてくれるようにしてくれました。結局、高校での学びゆえか人柄ゆえか、周りの人も手話を覚えてくれて、講義中にしょっちゅう手話べりで盛り上がっていましたね(笑)。先生がこっちを向いた瞬間にノートをとってるふりをしてました。2年の座学、1年の実習のあとに試験を受けて資格を取得しました。
- 周囲の人は介護との関連で手話を身につけたいというふうに思っていたんでしょうか?-
いや......私が面白いから自然と人が集まってきたんだと思いますね(笑)。今でも沖縄へ行くときは必ず友達と会います。
- 講義に情報保障はありましたか?勉強は大丈夫でしたか?-
ありませんでした。記憶力が取り柄ですから、板書を見ていると先生の思考が写真のように頭に入るんです。本も斜め読みするだけでだいたい頭に入ってくるし、先生が教えてくれた要点を頭に入れて試験をパスしていました。逆に数学はまるでダメでした。
- プロダイバーにはどういうきっかけでなりましたか?-
住んでいたアパートの目の前が海で、毎日青々と輝く海を眺めていると潜りたくなるじゃないですか。ダイビング専門店へ行って指導を受けようとすると「ろう者は受け入れられない」と断られてしまって、それをダイビングの資格を持っている友達に相談すると指導してもらえることになり、そして試験を受けようとするとまた「ろう者は受けられない」と言われてしまいました。そこで友人と一緒にダイビング団体の責任者に直談判して試験を受けられるようになりました。
この試験というのがとてもハードでした。プロダイバーは客の命を守らなければならないわけですから、400mを指定された時間以内に泳ぎ切るとか、水面から首を出した状態を30分キープとか、体力勝負の内容でした。それを乗り越えてプロダイバーの資格を取得しました。これとは別に(潜水業務に従事するのに必要な国家資格として法律で定められている)潜水士資格も取得して、お客さんと一緒に潜れるようになりました。
次は働く場所ですね。ダイビング資格を持っていても「ろう者には任せられない」とほとんどのダイビング施設から断られるなか、その中でなんとか採用してくれるところを見つけました。ホームページに私の名前とろう者であることが載った瞬間、土日の予定がろう者からの予約で埋め尽くされまして、沖縄で潜りたいろう者の多さを認識しました。そこで平日は介護福祉の仕事、土日はプロダイバーとして活動するようになりました。27歳で沖縄に引っ越して、28歳のときの話ですね。
- 休みがないじゃないですか。なぜ同時にやろうと?-
メインは介護福祉だったんですが、ろう者からのダイビング予約がひっきりなしに入ってくるので気が付いたらそうなっていました。ろう者を連れて潜れるダイバーは私しかいないし、お客さんも私を求めているしで断れませんでした。同時に講演も請け負っていたので合計3つの仕事を並行してやっていましたね。
介護福祉のほうは主に高齢者の相手をしていたんですが、沖縄方言はなんとか覚えられても、何かあったときに対応が難しくて限界を感じてきたんです。そもそも介護福祉というのは障害をもつ子供も対象なので、子供のほうが自分に向いているんじゃないかと思って、高齢介護、障害児ケア、学童保育の3つを1カ所で行っている施設に移りました。脳性まひやダウン症などで話せない子もいましたが、ろう学校での経験があったので難なく対応できました。高齢者も障害児も子どもも一緒に過ごしているのがやりやすかったです。このような運営の仕方は今では難しいかもしれませんね。
- その「三足のわらじ生活」も数年で終わっちゃうんですよね。-
はい。その時の私は30歳目前。20代のことを色々思い起こしていると、ふと先生の顔が浮かんできて「世界は広いぞ」と言われたことを思い出したんです。まだ世界一周してないな、30代になってからでは遅い、と思って旅に出る決意をしました。準備を終えて、出発の1週間前に退職を伝えました。そのとき私は施設の人気者だったので大混乱でした。
Q.どのように世界一周をしましたか?得たものはなんですか?
世界一周のための情報を集めていたころ、『ピースボート』という世界一周船旅ツアーになんと「あること」をすれば無料で参加できるという話を聞いたんです。それはピースボートの「地球一周」というポスターを貼ってもらえるお店を探すことで、1店舗ごとに旅費を300円浮かせることができるというものでした。100万円ほどの旅費を無料にするためには4000店ほどが必要で、気が遠くなりそうでしたがとりあえず貼ってみよう、とスタートしました。
最初は断られてばかりだったので、自分の「きこえないこと」を活かした交渉戦略を必死に考えて、その末にひねり出した戦略が、
・「世界一周したいので、夢への協力をお願いします。あなたの協力が世界一周へのキップとなります」と書いたボードを持って、元気よくお店に入る!笑顔で挨拶!そして自分のきこえないことを伝える!
・店員さんと交渉するときには、私の名前(春日春樹)や「地球」「アース」「(訪問先の国名)」などと縁がありそうな部分を取り上げる!
というものでした。さらに工夫を重ねて、最終的には交渉成功率は90%ほどまで高まりました。そうして半年で約4000店にポスターを貼り、見事無料で参加するチャンスをつかみました。
世界一周するにあたっては、海外の福祉がどのような状況にあるのかを実際にこの目で見たいと思っていました。介護福祉の仕事をしながらずっと気になっていたことでした。実際はなかなか見れるものじゃなかったのですが、それでも街中で障害者をごく当たり前の存在として扱っている光景がいろんな国で見られました。たとえばなにかを買うときに、私が日本での癖で「きこえないのですが......」から言い始めてしまったときに、一緒にいた人から「わざわざ伝えなくてもいいんだよ」と言われたことにまず驚きました。
日本人は自分がろう者だということを深刻に考えすぎてしまうんじゃないかな?日本人が何かあるごとにきこえないことを強調する様子は、外国人からは、ことあるごとに肌の色を強調するような振る舞いに重なって見えるんじゃないでしょうか。肌の色なんて関係ないじゃないですか。黒でも白でも。それと同じく、耳がきこえる・きこえないも関係のないことだと思います。根本的な考え方は「耳がきこえない、それがどうした」です。
- 肌の色は見てわかるものですが、耳のことは見てもわからないことが多いです。あらかじめ伝えておいた方が後々スムーズなのではないですか?-
島国の日本には単一民族・言語の雰囲気がありますけど、海外は異なる人種や言語と接することが当たり前にあります。使用言語が違うのも当たり前です。なので、手話に別段変わった反応をすることなく普通の対応が返ってくる、ということなんですが、最初は驚いて「(自分のきこえなさに関する)閉塞感は自分が作ったものなのかもしれないな、じゃあもう必要ないな、捨てちゃおう」という心情の変化がありました。その経験がその後の自分の価値観に影響を与えています。
- 今話されたことが世界一周で最も印象深かったことですか?-
そうです。同じぐらい印象深かったことのが性別の役割に関する価値観ですね。日本では「男は外に働きに出る、女は家で家事や育児をするものだ」という価値観が、とくに高齢層にまだ残っている印象ですけど、海外では両方が仕事も家事も育児もこなすのが普通でした。どこでもそうでした。
- 中東あたりは宗教によるジェンダー役割論への影響が大きい気もしますが、そうだったんですか?-
あ、中東は回っていないですね。アジア地域はタイとシンガポールだけでした。アメリカ、南米、ヨーロッパなどはそういった考え方が進んでいるのを目の当たりにして、私自身子供のときから「男は働きに出なければならない」ということに違和感を持っていたので、納得というより安心しました。
- 世界一周で得た経験で、日本での生活で活かされているものを教えてください。-
交渉力かなあ。日本や先進国だと商品の価格が固定されているけれど、そうでない国は価格が一定しないんでなにか買う時は交渉から始まるんです。
のちに妻と一緒にペルーとボリビアに行ったんですが、妻は私の交渉様子にずいぶん驚いていました。まずスマホにめちゃくちゃ低い価格を打って相手に見せるんです。日本の感覚だと服が100円みたいな。相手は高い価格を提示してくるので、交渉の末にその中ほどの金額に落ち着くのですが、妻は私の最初に見せた金額を見て「安すぎない!?ほんとうに大丈夫!?」と慌ててました(笑)
妻に交渉をさせてみると、高くぼられかけて、今度は私が慌てて間に入って安い値段にまけてもらって......なんてこともありました。
そうして身に付けた交渉力が、日本に帰ってきてから、人付き合いや面接などで活かされています。日本で耳がきこえないということは、率直に言ってしまえばハンデです。それを乗り越えるためには、ろうである自分が出来ることや強みを伝えることが必要です。そこで交渉力が活きています。
Q.JAXAではどんな仕事をされていましたか?
広報部でパンフレットやカレンダーなどを作っていました。障害のある子供にとって宇宙は遠く感じられるものではないかと思います。少しでも身近に感じられるようにと思って、宇宙関連の手話を作りました。有名なものでは、国際宇宙ステーションを「世界」「宇宙」「駅」と表すものがあったんですが、ここでのステーションは駅という意味ではないので「駅」と表すのは違うじゃないですか。そこでこのような表現を作りました。
手話ステーション - 【国際宇宙ステーション】
https://station.mdi.cc/PC/index.php?controll_id=sl-102&sign_id=4323
宇宙手話を覚えてみよう☆ | ファン!ファン!JAXA
https://fanfun.jaxa.jp/topics/detail/7661.html
宇宙手話を覚えてみよう JAXA | 宇宙航空研究開発機構 Youtube
https://www.youtube.com/watch?v=S9KUO6y4wMo
また、つくばにあるJAXAの筑波宇宙センターの展示には文章や内容が難しいものもあります。ろう者でも楽しめるように手話ツアー企画を立ち上げて、ろう者に宇宙を身近に感じてもらえるような、とくに子供には将来の夢のきっかけとなるような内容をお届けしました。子どもたちに宇宙船の話をしていたら「船じゃないのー?」「宇宙には電車で行くんじゃないの?」と返ってきたことがありました。その子供たちは漫画からかなり情報を得ていたようで、それぞれ『宇宙戦艦ヤマト』や『銀河鉄道999』を思い浮かべていたんです(笑)。しっかり現実の宇宙を伝えられるように方法や手話表現には工夫しまして、写真を多めに見せたり、宇宙船なら「船」でなく「丸っぽいポッド型」で表現したりするなど(より実体に合った表現を)心がけました。私が退職したりコロナ禍で中断したりしましたが、今でも手話ツアー企画は続いているようで、本当に喜ばしいことです。
Q.民泊を始めたきっかけは何ですか?北海道の美瑛町という立地についてもお聞かせください。
きっかけは子供ができたことです。新しい住処を探して沖縄、岐阜、北海道などを転々としていたんですが、最終的に息子がいちばん気に入ったところに定住すると決めていました。そこが北海道の美瑛町だったわけです。
前々から育児は自分が主にやると決めていました。積極的に育児に携わる身としては通勤に時間をとられるのは許容できませんから、家でも出来る仕事について考えていたとき、そういえば日本を一周したときにいろんな人の家に泊めてもらったなあ、と思い出して民泊を始めることにしたんです。
そこには「お世話になった分、こんどは自分がお返しする番だ」という気持ちと、息子には小さいうちから外国人との交流や異文化コミュニケーションに慣れさせておきたいという気持ちがありました。
お客様が来られたときに手続きや翌日の予定についてお話していると、話が広がっていきますね。翌日の朝帰られるときにも軽くお話するようにしていますが、15分ほどに留めるようにしています(笑)。
Q.民泊に来られるお客様はどんな方が多いのでしょうか?お客様とのコミュニケーションはどのような感じですか?
一番多いのは外国人のきこえる方で、ろう者は意外と多くありません。欧米やアジアなど様々な国からもお越しいただいていますが、アフリカからの来館は少ないですね。世界一周や海外のろう者との交流経験のおかげで、外国人とは英語ができなくてもほとんど身振りで通じています。最近は翻訳アプリの性能もよくなってきましたし、言語の違いに違和感はないですね。
日本人は全体の20%ほどです。SNSで当館のことが紹介されているようで、若い世代を中心にインスタ経由で来てくださる方が一定数いますね。なかには来館されてはじめて私がろう者だということを知ったという方もいました。それから40代以上は「テレビで見て来ました」という方が多いです。そのような方はだいたい自分がろう者だということを知っているので、筆談で話しかけてくれたり大きくはっきり話しかけてくれたり、手話を覚えてきてくださる方もいます。
Q.民泊を運営していてよかったこと、大変なことをそれぞれ教えてください。
よかったことは世界一周の経験を活かせている事ですね。「おもてなし」の精神のもと、お客様に心を開いてもらう、居心地よく感じてもらう。そのためになにができるか、どうコミュニケートするか。その技術は世界一周の経験から来たものです。おかげさまで接客態度は最高評価を頂くことが多いです。
一方で、とても大変だったのは民泊の許可申請でした。消防署、保健所、観光庁の認可が必要など、簡単に申請できるものでない上に、一度失敗すると後々に響いてくるので一回で完璧にやり切らないといけない。そこが大変なポイントでした。
「大変」の意味合いは変わりますが、北海道の広大さを知らない人がかなりいらっしゃいますね。19〜20時頃チェックインの予定のお客様がなかなかいらっしゃらないので連絡してみると「いま函館です。あと2時間ほどで......」と言い出したので慌てて「函館から美瑛まで8時間ですよ!!」と伝えるともう大騒ぎ。結局その方は深夜2時に到着......なんてことがありました。「札幌から美瑛まで地図で見ると近く見えるけど実際に走ってみると3時間もかかります!」という説明をもう何回繰り返したかわかりません。距離でいうと東京から名古屋ぐらいですよ(笑)。
そうだ、雪事情も大変です(笑)。ワンシーズンで2mほど降りますし、積もった日なんかは朝4時から雪かきをしないとお客様が予定通り帰れなくなりますし、吹雪いて停電したときにはお客様へのフォローをしないといけませんからね。
Q.著書『はるの空』出版のきっかけを教えてください。
もともと本を書く予定はありませんでしたが、講演で各地をまわっているうちに「本にして出版してほしい」「買いたい」という声が寄せられるようになって、とりあえずサビ部分だけを書いて各出版社に送りまくったんです。その中から返信のあった出版社と話して、さらに残りの部分を書き上げ、そして発売に至りました。
- 本は自分で書いたんですか?-
はい。たまに「ライターに書いてもらったんですか?」と聞かれますが、すべて自分の文章です。3日間で書き上げました(笑) 。ページ数との兼ね合いで半分ぐらいは削っちゃいましたけどね。
- 出版後はどうでしたか?-
本をきっかけに民泊の利用数が増えました。民泊に関して自ら特別な広報活動はしていなかったのですが、著書を読んだ新聞社やテレビ局から取材があり、その記事やテレビを見た人が当館を利用するというサイクルが自然と出来上がりました。
ここまでの話の原点にあるのは「生き方のネタがたくさんある」ことです。だから講演ができた。すると皆はもっと私のことを知りたくなった。それで本を出版して......と、どんどん話が広がっていったんです。人生の生き方というのはすごく大事な要素だと思います。実は、現在2冊目を鋭意執筆中です。
Q.新聞やテレビなどメディアへの露出が増えてから民泊や生活の様子はどう変わりましたか?
テレビの密着取材の関係で、1年のうち半分ほど、カメラと一緒という生活をしています。たった30分ほどの放映の裏には長時間の密着があるのです。トイレ以外はどこでも、風呂までにもついてきますから。子供はすっかり慣れちゃって日常になっていますね。私も幽霊だと思ってもはや気にしていないです(笑)。
その結果お客様は増えましたが、宿泊枠は1部屋で固定なのでキャパシティ的にもちょうどよい感じで、むしろ満室時の問い合わせ対応のほうが大変ですね。それから全国のファンやサポーターから手紙と一緒に贈り物、たとえば各所の名産品なんかをいただくので食に関しては結構助かっています。北海道では有名人になっているようで、外を歩いていると声をかけられまくります。悪いことは出来ないですね(笑)。
Q.春日さんにとって働くことにはどういった意味がありますか?
もちろん、ひとつは生活、妻子のためです。
自分の考えをお話しします。実は、20歳の時には将来の働き方をはっきりと決めていました。20年間ぐらいは、事務、農業、ダイバー、介護など色んな業種を経験することに時間をかける。ただし、3年でやめる。同じ仕事を長々は続けない。その後は経験を活かして独立する。そう決めていました。その通りになって、現在独立して民泊を運営しているわけです。
ひとつの会社で定年まで働き続ける(終身雇用制度に付随する)価値観にはずっと違和感がありました。母からよく言われていた「聴覚障害者だから職業については安定させてほしい」に対しても釈然としない気持ちでいました。そんな中で世界一周の旅に出て、日本のこれまでの働き方はむしろ特異なものだと知りました。海外では転職がそもそも普通のことなんです。外国人から「仕事というのは経験を積んでキャリアアップしていくものでしょ?」と言われたこともあります。なので、最近日本でも柔軟な働き方がしやすくなってきたことについて、率直に言うと「時代がようやく私の考えに追いついた」という気持ちがあります。
また、講演でろうの子供たちと話していると夢がない子供が多いんです。ある子供は「将来はなんとなく働くものだと思っている、職場はスタバかな?」というので、スタバ以外に想像できる職場はあるかと聞くと「ありません」と返ってきて驚いたことがあります。そういった子供たちにとって、色んな働き方を経験してきた私がロールモデルとなることで、「ろう者でもこういう働き方ができる」のだと知ってほしい。それが私の働く意味です。
Q.これからの目標を教えてください。
実はありません。20歳のときに作った「やりたいことリスト」の内容を全部やりきってしまったんですね。なので今は育児を楽しむことに集中しています。
- 子供が大きくなって家を出た後はやることがなくなっちゃいませんか?-
そのときは世界一周する、そう妻と約束してあります。60歳ぐらいになりますね。年齢的に船は大変だろうから、今度は飛行機で行きます(笑)。