人と人とのつながりを大切に。聴覚障害のある高齢者が安心して暮らせる社会を(1/4)

幼少時代から青年時代の間の出来事についてお話しください。

玉浦ベッドスクール時代、ベッドの上で勉強などをする生活を送った

 幼少時に満蒙開拓団の世話係だった両親と満州に渡りましたが、敗戦で日本に引き揚げてきました。帰国後の小学校6年間は、無欠席の健康な子供でしたが、中学1年の夏休みに突然発病しました。大学病院で入院生活を送り、多数の手術を受けましたが、色々な薬や注射のために14歳前後に失聴しました。

 だんだん聞こえなくなった時は、周囲に自分が話しても返事が聞こえないので、悔しくて泣いたことはありましたけど、一番困ったのは学校に通えないことでした。今思えば、同じ年頃の人がどんな勉強をして、どんな本を読んでいるのか、知りたかったですね。

仙台時代の病友が岩手・盛岡まで会いに来て、筆談で談笑中

 寝たきりだったため、仙台の近くの国立療養所にできた玉浦ベッドスクールに入りましたが、そこでは自分よりも小さい入院歴の長い子どもたちがいて、「私はまだいい方なんだな」と思ったものです。そこには6カ月だけいて、また大学病院に戻りました。その後、大学病院から一時帰宅していた時に、みみより会東北グループができたのですが、10人ほどのメンバーがあちこちに散らばっていて会えないため、メンバー内で回覧ノートを書いて郵送して回していました。私が近況を書いて次の人に送り、その人はまた次の人に書いて送るといった状況です。また、私の家にみんなで集まり、おしゃべりを楽しんだりしていました。それが支えでした。運転免許裁判で知られる樋下氏はこのころからの仲間です。

 発病して10年経ちやっと完治し、将来の進路を考えた時に、入院中から購読していたみみより会の本や日本聴力障害者新聞で、聞こえない方々が色々活躍しているのを読んでいましたので、「やっぱり自分も」という気持ちがありました。松葉杖をつきながら、県の身体障害者更生相談所に相談しに行きました。もちろん母と一緒です。一人では何もできない子でしたから。

 そこの指導員から、身体障害よりも聴覚障害の方の訓練が大切だということで東京の国立聴力言語障害センター入所をすすめられたことが、私の人生の分かれ目となりました。色々な人と人のつながりがあって、いつかどこかでつながったりするのですね。そういう意味では、本当に幸せだったと思います。

ろう社会への活動に参加することになったきっかけ、最初に就いた仕事や当時のろうあ者を取り巻く社会情勢についてお話しください。

当時の印刷会社、タイピストが10人位いた

 退院後、社会復帰訓練のために入所した東京の国立聴覚言語障害センターでは、和文タイプ技術を学びました。当センターでは、ろう学校育ちの人と中途失聴の人が一緒に学んでいて、そこで初めて手話に出会いました。周りは手話だらけで、自分だけが手話がわからない。それまで空文字でコミュニケーション取っていたのが、ろうあ者の中では通用しませんでした。センターを卒業した先輩たちが遊びにくる中で、指文字や手話のいろはを教わりました。

 1年間訓練を受けた後、職能担当だった貞廣邦彦先生の紹介で住み込みの会社に入りました。当時のタイプ指導の先生から、「タイプは会社によって打ち方や技術が違うから、将来自宅で仕事をするなら、3年位で会社を変わって色々な技術を身に付けた方がよい」と言われたので、3回職場を変わって技術を習得しながら9年間一般企業で働きました。その間に、銀座の手話サークルこだま会に通ったことがきっかけで、ろう運動の世界に入ることになりました。

手話サークルこだま会の学習風景

 当時のろうあ者の職業は、男性は印刷業や活版印刷、写真植字とかに入る人が多かったですね。今のように、障害者雇用促進法もなかった頃です。タイピストは、当時は「花のタイピスト」と言われたものですが、この50年間で筆耕から、タイプ、キーパンチャー、ワープロ、コンピューターと移り変わりました。それに伴って、仕事の内容も変わってきていますね。

 国立聴覚言語障害センターでの訓練内容は、タイプ・印刷・巻線コイル・クリーニング・洋裁とかでしたから、センターの卒業生はほとんどがそういう職種に就きました。

 洋裁も個人の仕立屋で技術を磨くとか、洋服の流れ作業の会社に入るとかでしたし、クリーニングだと一般のクリーニング屋とか大きな会社に入るとかですね。筑波大学付属聾学校は歯科技工科で有名ですよね。地域によって理容が有名なところもあって、ろうあ者で理容店を開いた人もたくさんいると聞きますが、東京は印刷関係が多かったですね。

書記として岡山で開催された全国大会に参加した時

 とにかく、すべてが技術を持たなければいけない時代だったのです。今の若い方のように頭脳労働というのはあまりいませんでしたね。たまに大学卒で、聾学校の先生になる人とかぽつぽつ出てきた頃ですからね。1947年(昭和22年)、学校教育法で全義務教育になって、ろうあ者も義務教育を受けられるようになってからですよ。1965年代(昭和40年~)頃には、大学卒業の方々がろうあ連盟の役員につくようになりました。そうして、東京や大阪、京都などでは大学卒のろうあ者が中心に集まるようになって、ろうあ者の立場を主張することが必要だという運動が高まっていったわけです。


>続きを読む「ろう運動で印象に残っている出来事」