6月7日(火)に第6回ろう者学ランチトークが行われました。
今回はPEPNet-Japan事務補佐員の平良悟子さんにお越し頂きました。講演テーマは「聞こえる世界と聞こえない世界を行き来する意味」です。平良さんはこの4月に生まれ育った沖縄を離れ、つくばに引っ越し、PEPNet-Japan事務局に勤め始められたばかりです。今回は生まれ育った沖縄での経験、そしてこれまでのお仕事の経験などについてお話し頂きました。
おかげさまで、教員、学生、地域にお住まいの方々合わせて、53名の参加がありました。
宮古島で生まれた平良さんは、1歳半の時に聴覚障害が判明し、本島に引っ越し、沖縄県立沖縄ろう学校の教育相談、幼稚部に通います。途中から地域の幼稚園に通い始めますが、その聞こえる友達と内緒話する時に耳元でささやかれ、わからなかったので、口の形を見せてと言ったら戸惑った表情をされ、そこから私は何かが違うんだと自覚し始めたそうです。
小中学校は一般学校に通い、FMマイクを使用して一番前に座り、先生の声を聞き取って楽しい学校生活を送っていたといいます。中学のときにFMマイクが壊れ、先生の話が聞き取れず、苦しい思いをしました。授業についていけず、このままでいいだろうかと悩んだ平良さんは、きちんと学べる環境を求めて沖縄県立沖縄ろう学校高等部に進学します。
しかし、入ってすぐ「ここを選んだのが間違いだった」と後悔します。同じ日本人なのに口話(日本語)が通じず、カルチャーショックを受けます。手話を覚え始めますが、早く卒業して自分が慣れ親しんでいる聞こえる世界に戻りたいと常に思っていたそうです。
卒業後は沖縄大学に入学し、ノートテイクによる支援を受け、初めて文字で授業内容が理解でき、感動しました。当時はサークルにも入らず、バイトもせず、授業が終わったらまっすぐ家に帰るという面白みのない大学生活だったと振り返ります。
そんな時に平良さんに転機が訪れます。支援課の職員から、こういう研修があるけど参加しないかと勧められ、参加したのが2011年に本学で開催された「聴覚障害学生エンパワメントモデル研修会」でした。社会人とのクロストーク、模擬面接、ロールプレイ、キャリアデザインなど様々なプログラムを通して、全国から集まった同世代の聴覚障害学生と出会い、彼らの考えや活躍にとても刺激を受けました。
研修の一環として、キャリアプランを作成した時に、「30歳になった時は社会福祉士として働いて様々な人を助けている」という最終目標を立てました。その最終目標に向かって、色々細かい目標や今できることを記入していきましたが、それらの作業を通して将来どんな人になりたいか考えさせられたそうです。
沖縄に帰った後、何かアクションを起こしたいとゼミ仲間を巻き込んで、学内に障害学生が集う場を作りました。いつの間にかサークルになっていき、今も「障がい学生交流クラブ~遊快~」として活動されています。
そして就活中、コーディネーターとして働いてみないかと声をかけられ、2年間母校の沖縄大学で障がい学生支援コーディネーターとして勤めました。支援を受ける側から支援を提供する側になり、戸惑いましたが、真面目に楽しく、共に学び支えることをモットーに、手話勉強会、合宿など、学生同士が共に考え話し合える環境づくりに奔走します。
どちらかの世界にいて自分を出さなければいけないという固定観念にとらわれていましたが、大学2年を境にどちらかを選んで居続ける必要はないと気づき、気が楽になったと言います。これからも何かのターニングポイントの時に、障害は切り離せない、どうやって当事者として行動・発信していくべきか、本学で経験を積んでいきたいと話してくださいました。
沖縄でも近年大学へ進学する聴覚障害学生が増えていますが、大学によって支援の偏りがあるため、どの大学でも支援を受けられるようにする必要があると感じています。
沖縄は海が綺麗でとても美しい島という印象がありますが、6月23日は慰霊の日で沖縄県民にとっては沖縄戦が終結した特別な日であり、いまだに基地問題も解決されていないままです。それだけではなく、沖縄での離婚率の高さ、県民所得の低さ、子どもの貧困率の高さなど、暗い問題を抱えています。沖縄人としても何らか発信していって、県外の多くの人々にも知ってほしいと話します。
聞こえる世界と聞こえない世界を行き来する自分と、そしてうちなーんちゅ(沖縄人)である自分と県外に住んでいる自分、これからも2つのアイデンティティを持ち続けるであろう、だからこそつくばで様々な経験を得て成長していきたいとこれからの心意気を話してくださいました。貴重な経験を積まれて、ますますご活躍されることをお祈りしています!!
参加してくださった皆さま、ありがとうございました!!