ダスキン・アジア太平洋障害者リーダー育成事業の第22期生として日本で研修をされている、ミャンマー出身のろう者ノー・サン・ター・ウイさんにお話いただきました。
こんにちは、私はウイといいます。
ミャンマーのバアン市というところに生まれました。私の家族は、父、母、妹、私の4人です。家族の中で、ろう者は私だけで他の人は皆きこえます。私が3歳の時に、病気になり失聴しました。ろう学校に入り、5歳で手話言語を覚え始め、小学校もろう学校で学んでいました。中学、高校はきこえる学生のための学校に進学しましたが、きこえる人ばかりで話が分からない、授業ではきこえる友達にノートに書いてもらっていましたが、それでも内容が分からなくて大変でした。高校を卒業した後、衣服の縫製を3ヶ月間学びました。しかし、縫製に自信がなかったので縫製の仕事をやることは考えられませんでした。ろう学校の校長先生に相談すると、手話言語の先生になるのはどうかと勧められ、1年間ろうの子どもたちに教えてみました。問題なく教えることができたので、そのまま6年続けることができました。
そして、ある人がダスキン愛の輪基金のアジア太平洋障害者リーダー育成事業のことを紹介してくれ、受験することにしました。嬉しいことに私は選ばれたので、日本語の学習を頑張りました。2021年に日本に行く予定だったのですが、新型コロナウイルス感染症のため1年延期されてしまいました。Zoomで日本手話言語を教えてもらいながら日本語も勉強し、1年経ってようやく日本に渡りました。
ミャンマーのチャップマンろう学校についてお話します。この学校では、手話言語で教える先生と口話のみで教える先生を見分けるために衣服の色が指定されています。ピンク色の服を着ているのが手話言語グループでろうの先生もいます。白色の服を着ているのが口話グループで全員がきこえる先生です。日本では、例えば7歳の子どもなら7歳だけのクラスで学びますよね。ミャンマーでは、7歳から15歳までの子どもが一緒のクラスになっているのです。年齢がバラバラなので手話言語で教えるとしてもとても大変です。このろう学校は中学部、高等部がないため、小学部のクラスに中学生、高校生が在籍していることが普通なのです。
ミャンマーのろう者にとって、手話言語通訳がなく、障害を理由に差別されるなど、多くの問題を抱えています。日本に行って色々見てきて思ったことですが、手話通訳言語の派遣制度が整っていて、ろう者に対する差別が少なく、きこえる人と対等でいられること。テレビでの手話番組があって、国内や世界での出来事を手話言語で情報を得られること。病院でも手話言語通訳を呼べて、オンラインで利用できる電話リレーサービスもあること。ろう者のための支援制度が充実していて、とても驚きました。ミャンマーも日本のように変わってほしいと思いました。私はミャンマーに帰ったら、自分にできることは、まず、ろう学校で子どもへの手話言語指導を続けることと、ミャンマー語とミャンマー手話言語をもっと勉強していくことです。
皆さん、お話を聞いてくださってありがとうございました。
今回は学生、教職員を合わせて29名の参加がありました。ミニトークにお越しいただき、ありがとうございました!