11月12日日曜日、本学の天久保キャンパスにて平成29年度筑波技術大学公開講座・ろう者学セミナー「生活史に学ぶ聴覚障害者の生き方」を開講しました。今回は聴覚障害者の様々な生き方に焦点をあてた内容を用意し、ろう者、手話を学んでいる方、手話通訳者として活動されている方など、20代~60代まで幅広い年齢層から17名の参加がありました。
今回のセミナーでは、本学の大杉豊教授、小林洋子助教の2名の教員が講師を務め、プログラムの各テーマに沿って講義を行ったあとに2つのグループに分かれて参加者と教員で、講義内容の質疑応答を含めた交流をしました。下記の通り、各プログラムの概要についてご報告いたします。
10:00~10:30「1950~60年代について~ろう者をめぐる社会環境~」(大杉)
まずはろう者学の入門として、日本社会、ろう者社会、ろう者コミュニティについてお話しいただきました。1964年の東京オリンピックについて、当時はメディアには注目されなかったけど車いすの競技があったことをきっかけに障害者の社会参加が進み、2020年にはオリンピックと並んでパラリンピックが同等のものとして認められるようになりつつあるといった社会的背景の変化が見られることを確認し、その社会的背景の変化は、ろう者社会にも影響があることに触れました。ろう者社会は、1980年代までは、聾学校が心臓部となり、当時の聾学校の先生は主にろう者と社会のつなげ役を担っていました。ろう者同士の結婚の仲介をする教員も多かったです。ろう運動も聾学校の部屋で集まることが多く、同窓生の活動が盛んでありました。また、「手に職を!」のために、聾学校には職業科が設けられて、卒業後は技術職に就くという道が当たり前のことでした。ところが、現在は社会の変化とともに、福祉制度が整い、ろう者と社会を繋ぐ場所は福祉行政機関(市区町村、ハローワーク等)が担うようになりました。さらに、聾学校から離れたところで、多方面に渡ってろう者コミュニティが形成されています。現代の聾学校は、教育機関としての役割を果たすに留まっているといえましょう。ろう者コミュニティについて、1980年に提唱された古典的モデルから、聴力的、社会的、言語的、政治的の4つが集合して成立していることを説明されていました。それらは、ろう者だけで成立しているのではなく、きこえる人もろう者とは入り口が異なるだけで、ろう者コミュニティに参加しているともいえる場面があります。
10:30~12:00「移民の生活記録に学ぶ~ライフヒストリー手法~」(大杉)
ここでは、大杉教員が米国在住中の1995年に知り合った日本人(米国国籍取得)のろう者、山地彪(やまじ たけし)さんについて、生い立ちから、米国渡航のきっかけ、米国での生活、米国の社会についてライフヒストリー手法でまとめた内容を紹介しました。インタビューは、計30回(1回2時間程)以上行われたのだそうです。山地さんは1934年に大阪で生まれ、大阪市立ろう学校に通っていました。両親、妹もろうのデフファミリーです。インタビュー中も見慣れない大阪手話が時折使われ、また、これまでの育ちの違いからか、当初は彼の手話を理解するのに難しい面もあったのだそうです。山地さんは、幼少時代、特に戦時中は、空襲警報も聞こえず、警報があったときは、玄関にある父親手製の装置を使って隣人に知らせてもらうなどの助けを受けながら、大変な時を過ごしたといいます。当時は、デフファミリーに対する世間の目は厳しく、きこえない親は、きこえる子どもを生み育て、自分の子どもに助けてもらうのが良い、きこえない同士はきこえない子どもが生まれるから結婚すべきではないという風潮があったようです。そんな中、ろう女性を取り上げた米国の映画、戦時中に知り合ったきこえない両親をもつコーダである米国兵との出会いをきっかけに米国の自由な文化に憧れを抱くようになります。米国兵の戦死後も彼の両親との文通は続き、米国から食材、生活用品、洋服を送ってもらうなど交流をする中で、山地さんの米国への関心は強くなっていきます。1955年に妹が中国系米国人のろう者と結婚し、渡米したのをきっかけに妹に会うために初めて単人渡米します。これが、山地さんの移住の決意を固いものにしました。結婚後、妻と長男、長女(2人ともコーダ)を連れて移住します。しかしながら、米国でもろう者、さらにアジア人としての二重差別に苦しみます。それでも山地さんは、移住後に生まれた次男(コーダ)と合わせて3人の子どもに手話を使うように躾をして家庭環境を整え、アジア人ろう者として権利擁護団体を設立する等のろう運動をして、米国社会へ立ち向かうことで、米国での生活を少しずつ確立させていきます。結局、日本も米国もろう者への差別は変わらない、どこでも同じだというのが最終結論であるとのことです。
一般的に、ライフステージ、ライフサイクル、ライフコースの3つが知られていますが、ライフヒストリーは、ライフコースに焦点を当てたものになります。山地さんは、渡米前、家庭、ろう学校で手話によるコミュニケーション環境にあったことで、ろう者としてのアイデンティティを確立させていたため、それが米国での生活の支えになっていたのだろうというのが大杉教員の見解です。
13:00~14:30「昭和時代に先駆的な活動を展開したろう女性のライフヒストリー」(小林)
まずは、導入として、戦前戦後を生きたろう女性についての映像を流しました。ひと昔前までは、聴こえないことを理由に結婚や出産を反対されたり、聴こえない両親の元で生まれてきたきこえる子ども(コーダ)は親が聴こえないことを理由に学校でいじめられることも珍しくなく、当時はろう者をはじめ、ろう女性にとって社会の中で生きていくことは大変厳しいものでした。そのような時代を駆け抜けてきたろう女性の一人として、及川リウ子さんにスポットを当てて、当時の時代的な背景も取り上げながら、彼女の生い立ちから現在における活動について、当時の写真を見せながら話しました。及川さんは、戦時中に岩手県で生まれ、すぐに満州に渡ったものの、戦後は満州から帰国しました。10代に発病し同時に失聴、長年の闘病生活を経て、国立聴力言語障害センターに通い始めました。その時が人生の分かれ目となり、ろう女性として聴覚障害者のよりよい社会参加を目指して様々な活動をスタートするきっかけとなりました。東京都聴力障害者協会(当時)の婦人部長として、当時の都知事で革新知事としても知られた美濃部亮吉氏との対話集会に参加し、聴覚障害者の社会参加の向上に貢献しました。また、1970年には第1回関東地区ろうあ婦人大会、翌年の1971年に第1回全国ろうあ婦人集会を京都で開催するなど、先駆的な活動を展開していきました、ろうあ婦人集会では、女性の強制不妊治療、虐待などが取り上げられ、「涙の集会」とも呼ばれました。その4年後には全日本ろうあ連盟婦人部の設立にも寄与し、またろう女性のために保育所の優先入所やベビーシグナルの無料配布などを認めてもらえるように、厚生労働省や文部科学省に交渉にあたりました。現在は、地域活動支援センター「デフケア・クローバー」施設長をはじめ、地域社会の発展のために精力的な活動をされています。2015年には、長年の社会貢献活動が認められてろう女性として初の社会貢献者表彰を受賞されました。「人と人とのつながりを大切に。」及川さんは日々それを心がけながら、現在も地域社会において奔走されています。
14:40~15:30 質疑応答を中心とするディスカッション
手話通訳を必要とするグループ(9名)と不要のグループ(8名)に分かれて、大杉教員と小林教員が途中交替する形でそれぞれディスカッションを行いました。手話通訳を必要とするグループでは、ろう者とのコミュニケーションについて、ろう者に自分の話がちゃんと伝わっていないことがあるという点で、価値観、これまでの教育、家庭環境の違いから会話が噛み合ない、手話が上手く伝わらないといったことがある、これはろう者同士でもよくある話であるということ、ろう者文化がよく分からないといった内容がみられました。一方で、不要グループでは、コーダの生き方について、手話通訳者としての夢や目標についての話で盛り上がっていました。なかでも、東京オリンピックにて手話通訳者として活動したい、孫に伝えていきたいという意気込みには、こちらも嬉しくなりました。
「とても興味深い内容だった」「今まで知ることのなかった内容がたくさんあった」という参加者から多くの声をいただき、一見テーマは難しそうだけれどもそれとは裏腹に、2名の教員が分かりやすい手話で丁寧にお話しされたことで非常に充実した内容となりました。また、「普段ろう者が使用している手話を学ぶ機会が欲しい」「ろう文化を学びたい」という声もありましたので、これからより多くの機会を提供できればと思います。
参加してくださった皆さま、ありがとうございました!!
(報告:ろう者学プロジェクトスタッフ 門脇 翠)